慰霊祭当日の様子はこちら:二中健児の塔慰霊祭(令和2年)

那覇高校では慰霊の日に向けた「平和教育」での取り組みが行われています。「校歌をとおして沖縄戦を考える」で6つの質問に対して、生徒の意見や感想等が述べられています。
今年のレポートを同窓会ホームページ上に掲示いたします。

 

「平和教育」での取り組み
レポートPDF版

 

校歌をとおして沖縄戦を考える

1.あなたは、那覇高校の校歌の 1番が沖縄戦の惨禍を表現した歌詞だと知っていましたか。

  • 知っていた  56% ※各学年ほぼ同じ
  • 知らなかった 44%

2.那覇高校校歌の歌詞全体の内容や意味を知ってどう思いましたか。

・校歌の中にしるすほどに、沖縄戦は当時の人々のこころの中に深く、消えることなく、きざみこまれていることをあらためて知るきっかけになりました。なので、自分達も、そのことについて考えていかなければならないと思いました。(1−1)

・普段、何気なく聞いたり歌ったりしている校歌だったけど、戦争のあと、たくさん頑張ってくれた先輩方の気持ちが入っているんだなと思いました。先輩方が築いてくれた那覇高で、私も3年間一生懸命頑張ろうと思いました。(1−4)

・戦争で全て失った「過去」から、那覇高生が世界中へ羽ばたく「未来」が描かれていて、改めてこの校歌を歌うことができて嬉しく思う。(1−10)

・那覇高校の歴史が深いことを、校歌で知れるなんて知らなかった。誇らしく歌っていた校歌にはこんな歴史が隠れていたと思うと、次歌う時、今までと違う気持ちで歌うと思う。戦争でおこった悲しみや苦しみ、成長をかみしめながら歌いたい。(2−1)

・最初は沖縄戦の暗い話だけど、そこから段々と末来への展望を描いた内容に、諦めない思いや勇気を得られるような気がした。(2−2)

・まさか沖縄戦を表現していたなんて思わなかったから、意味を知ってとても驚いた。意味を知った今、私たちがこれからやらなければならないことが明確になった。情報化社会の今をうまく利用して世の中にもっと関心をもたないといけないと思った。(2−9)

・内容は知っていたが、正直に言うと『那覇高の校歌は長い』という印象しかしなかった。しかし、今回、再び読み返して、本当に沢山の思いが詰まった校歌なんだ、と思った。普段、1,2,4番しか歌わないが、何が欠けてもいけないような、端から端まで思いがある歌詞で、たまには、全部歌うような時があってもいいと思う。(3−1)

・戦争が終わってから、その時に真栄田校長がこれからの末来を思い描いたと知って、そんなに深い意味を持った素晴らしい歌詞がある学校の生徒であることをほこりに思った。また、当時の先輩たちが願った今の私たちのような平和な世界に今生きていることに感謝し、これからはその気持ちを込めて歌おうと思った。(3−7)

・今までとくに何も考えず歌っていたが、解説とともに読んでみると、戦争から新しい出発など、当時の状況や人々の努力をうたったものだったことがわかり、前に進んでいく歌詞がとてもまぶしく、カ強いものに感じる。この歌詞の意味がみんなわかるようにしないともったいない。(3−8)

3.那覇高校初代校長である真栄田義見先生は、どのような思いで那覇高校の校歌の歌詞を作ったと思いますか。

・真栄田先生は沖縄戦の悲惨さを戦争を知らない人に知ってほしいと思って作ったと思います。また、真栄田先生自身が、那覇高校校長として「戦争を二度としてはいけない、だから、僕が伝えなければ」という強い思いと責任や、亡くなった二中の生徒のために校歌を作ったと思います。(1−1)

・生徒や沖縄の人に立ちなおってほしい、未来に向かって行って欲しいという思いだったと思います。なぜなら、校歌が「世紀の嵐」から始まり、「五大州=世界」へと大きな目標の歌詞になっているからです。戦争で外国はコリゴリなはずなのに世界を夢見ているからです。だから私も、この歌詞のように失敗をしても、辛くても頑張って歩き続けたいと思いました。(1−7)

・苦しみから自分たち(生徒)がどうやって希望をつかむのか、大変だったけど、そのことを忘れずに頑張ろう!!みんなで那覇高校をつくりあげよう!!という思いで作ったと思います。(1−7)

・絶望の底から生きのびている生徒たちへ「運命は自分たちで開拓する」ことを伝えるために、沖縄の運命を変えたいために必死にこの歌詞を作ったと思います。(2−1)

・自分の教え子や周りの関係者を戦争で亡くされて、本当はとても憎かったどろうし、悔しかったと思います。だけど、自分は生かされたならその人たちの分まで頑張らなきゃいけない。この悲惨な出来事を決して忘れることなく、未来へつなぎ、自分たちの力で沖縄を変えていかなければならないという強い意志があったのではないかと思いました。(2−2)

・初代校長の真栄田先生は二中の時の教え子を多く失っていて、自分も苦しい経験をしたが、絶望から希望に満ちあふれた未来になるように信じて時代の流れを校歌にしたのだと思う。(2−8)

・どんな困難な状況でも立ち上がり、新しいことに挑戦し、努力し続けることができる、末来への希望や可能性をたくさん秘めている、そんな那覇高校になってほしいという思いだったと思います。(3−1)

・絶望の淵に立たされても、希望を捨てずに、頑張ってほしい。戦争の惨禍を決して忘れず語り継ぎ、勉学に励むことで、未来の沖縄がどうか明るいものであってほしい。(3−5)

・私は那覇高生だけでなく、沖縄県民全員に向けて作ったと思います。自分達がどうなるか分からないから不安になったり絶望したりぜずに、「今」を生きる。前に進むしかない、でも過去も背負っていかいないといけない、そんな強い思いで作ったと思います。(3−8)

4.ラジオ番組「新沖縄の夜は明けぬ」を聞いて感想を書いてください。

・「大学まで行きたかった」という言葉を聞いて、今、入学したばかりの1年生までもが大学進学を考えながら生活をして、進学率も高い高校となっているのは先翡方の努力や希望があったからだと感じた。(1−4)

・実際に戦争を体験した方の話し声が入っていたので気持ちが伝わってきました。対馬丸の話を持ちかけたときに、ヤビクさんが話したくないと言っていたのを聞いて、それくらい辛くて嫌な体験だったんだと思いました。それでも話をしてくれたことは、きっと後世に残して語り継いでほしいというメッセージがあると感じました。(1−4)

・学校に行きたいのに行けない、勉強したいのにする環境がないと戦争によって色々な場面でたくさんの被害を受けていたんだと思った。今、自分は、学校にも行けてるし、勉強する環境が整っているから、今当たり前にできている事を大切にしようと思った。(1−7)

・戦争体験者の話の中で一番印象的なのが、一期生の島袋さんの目の前で家族が燥発によって散ったと開いてとても残酷だと思いました。こんな思いをしてもなお、学校に通って勉強していてとても凄いと感じました。(2−1)

・戦後、学舎から自分たちでつくり、学ぶことを楽しみにし、希望を見つけることができた。戦争のない平和な生活がいかに尊いか、大切なのかを感じた。(2−4)

・このラジオを聞いて実際に体験した人は生きるために一生懸命たったんだと思った。シマプクロさんが話していた二中が十・十空襲の空襲で燃えているのを見たという言菓にとても胸が苦しくなった。自分の学校がそんな状況だったら絶対、もっと悲しい気持ちでいつばいだと思った。(2−8)

・「話したくない」程の悲しさは、今の自分には、絶対にわかりきれないけど、そんな思いがあっても、これからも平和でありつづける為に、伝えてくださる人がいるから、全部全部ありがたいし、日々の本当に小さな平和にも感謝していかないとな一、と思った。(3−1)

・先輩方のインタビューで、対馬丸に乗って生き残った方が、そのことは話したくない、沖縄戦から逃げたような感じがすると語っていたのがとても心に残った。学校がとても楽しかった。もっと勉強したいとみなさん語っていて、自分はとても幸せだと思った。(3−5)

・当時の状況があって、今の学校があって、今多くのことを学べる状況にあることを教えてくれました。当たり前なんてやっばりないな、と思います。(3−6)

5.社説(「世紀の嵐」を歌い継ぐ)の記事を読んで、あなたはどのように感じましたか。意見や感想を書いて下さい。

・校歌は、当時の人々の思いがつめられているので、その代表をして思いを伝えたい人々が多くいると感じました。また「校歌に託す」と書かれているのを見て、沖縄、そして那覇高生にとっては、沖縄戦とは、とても悲しいものであることがわかる。そして、同じように校歌には、その後の希望もこめられていて、私達は、その時を生きているとわかりました。(1−1)

・那覇高校の校歌はただの校歌ではなくて、戦争で亡くなられた方や、生き残った方の思いや、希望、夢がつまっている校歌ということがわかって、私もこれからは那覇高生としてほこりを持ち、那覇高の校歌を歌い継ぎたいと思いました。(1−1)

・甲子園で那覇高校野球部の歌った四番の校歌への抗議があったり、戦没者を弔い、無の状態から今現在自分たちの代までつながっていることから、卒業した先輩方の那覇高校の伝統や沢山の歴史を大切にするという思いがこもった内容だと思った。(1−7)

・自分も野球部で校歌について友達から軽く戦争の事を書いていると聞いたが、記事を読むと、詳しく書いていて「世紀の嵐」や「新沖縄の夜は明けぬ」など、考えれば戦争をイメージできたり、この言莱を使った思いなども分かり、那覇高生として、野球部として、校歌の意味を知れて良かった。 (2−1)

・記事のこととはちょっとずれるけど、高校生でまだ若いし、短い間しか生きれてないのに、国のために出て亡くなってしまった人たちのために「二中健児の塔」に名前が刻まれていると聞いて、行ってみたいと思いました。(2−2)

・今では考えられないほど悲惨で、私達が今当たり前のようにしていることも昔はできなかったのかと考えると、改めて今の環境にしてくれた先人達に感謝の気持ちをもち、当たり前を当たり前だと思わずに、日頃から何事もすぐに諦めたり、文句を言うのではなく、廊謝の気持ちを持とうと思いました。(2−6)

・当時の絶望の中でみんなが前を向いていられたのは校長が自分の絶望感に負けるのではなく、必死で目を向こうとしたからだと思った。また、卒業生がこの校歌の一番にこだわっているというのがなぜかとても嬉しかったし、とても大事な事だと思った。人は興味を示さない事を忘れるのは早いから、自分達も校歌や戦争についてよく考えることができる時間をとってもらえてよかった。(3−1)

・戦争の終わりは何なのだろうと思った。戦いは終わっても、生きるのに必死で、自分の故郷はやけ果てて、家族や友人も失い、悲しみや苦しみは簡単に消えることは無いはずなのに、少しでも生きる希望を見つけ、今の私達まで、命、歴史をつなげてくれた。全てを奪ってしまう戦争の悲惨さはきっと、今の私達には全てを知ることはできないだろう。あの時、戦場と化していた上に私たちは生きている。その事は絶対に忘れてはいけないなと思った。今でも戦争の爪跡はたくさん残っている。戦争は終わっても終わりきれないと思った。(3−3)

・私たちが式典のときに歌わされているだけのように感じていた校歌も、特に一番は、70年も前の惨劇が語られていて、卒業生が在校生だったとき、今よりももっと意味をもっていた歌詞であったとわかりました。戦争という沖縄県の歴史を語るうえではさけられないものがこんなに身近にあり、それを大切に、秘められた意味をこれから何十年も忘れないでいたいと思いました。(3−7)

6.琉球新報発行「りゅうぽん」ー戦後75年戦争と平和を学ぶーを読んで特に印象に残った記事について感想や意見を書いてください。

・一年生の差で戦地に行かず
私は実際に高良さんに一対ーで沖縄戦について説明してもらっいて、戦争の恐ろしさだけではなく、戦争時の高良さん一家の苦労や悲しみなど全て細かく教えてくださいました。やっぱり、戦争を体験している方々が少なくなる一方で、このような戦争について、私たち自身が伝えていかないといけないと思う。(1−1)

・ f昔のことでは終わらせない」戦争をもっと身近に感じ、今後の沖縄の未来を背負う責任や自覚をもっていたいと思った。戦争を語る人が少なくなっている中で、これからどう戦争をどう伝えて行くべきか考えたい。(1−6)

・命軽んじる時代二度とだめ (1−6)

・命を軽んじることは、戦争だけでなくSNSなどでの誹謗中傷もかなと思った。亡くなった方々の死を無駄にしないよう、どんな理由があっても人の命を軽んじることはしないようにしようと思った。戦争の悲惨さを改めて感じた。(1−9)

・国内の米軍基地70%が県内に集中戦争から75年たった今でも米軍基地が沖縄に数多く残っていて、軍人による犯罪も後をたたなくて、逮捕できずに終わっている事件が多くあると知って、もっと基地問題について考えるべきだと思いました。(2−6)

・りゅうちえる インタビュー
沖縄県民の中でしか慰霊の日というものが浸透していないのがビックリ。そんな中で、全国的に有名な人がSNSで呼びかけてくれたり、発信してくれるのはとてもよいことだと思った。本土の人にあまり戦争とかに興味を示していないような気がするけど、こういうSNSを通じて知ってくれたら嬉しいと思う。(2−10)

・県民の命危機にあらす沖縄にはずっと前から基地がたくさんあるし、米兵が関わる事件もたくさんある。沖縄だけが今までもこんな辛い思いをしていたのに、もし、これからもこの社会が変わっていかないのなら、日本は、正直よくない国だとすら思う。こっちが不利になるようなそんな条約とか、全部つくりなおしたほうがいいと思う。(2−10)

・戦後75年沖縄の受難続く戦争や基地について考えたとき、いつも思うのがなぜ沖縄?ってこと。場所がいいのはわかるけど、地上戦をしたのも、日本復帰が遅かったのも基地がおおいのも、そのせいで事件が多いのも、全部どうにかならないのかなと思った。基地があること、軍人のせいで被害を被ること、沖縄なのに日本なのに入れない場所、空域があることを普通と思わないことも大切だと思った。

・一学年の差で戦地に行かず
日本兵にスパイ容疑をかけられて銃剣をつきつけられたとき、その中に顔見知りの人がいた、ということにとても衝撃を受けた。戦争は心を鬼にすると聞いたことはあったけど、そこまで人を変えたのば怖い。(3−2)

・沖縄戦「昔のこと」では終わらせない
りゅうちえるさんのような著名人がツイッターなどで慰霊の日にメッセージを残すことで、沖縄の人だけでなく、本士の人にも知ってもらえる良いきっかけになると思う。

・生と死隣り合わせ冒頭、「震える少女」と呼ばれる写真に「これは私だ」というまでに74年かかったとあり、浦崎さんの体験には何十年たっても口に出せないものがあるのかなと思いました。母が動くのが難しくなりおいていかないといけない、そんな葛藤は、私は体験したこともなく、ましてや6歳の浦崎さんには辛いという言葉では表せない体験だっただろうなと思い、とても胸が苦しくなりました。(3−7)