二中健児之塔 遺族代表 謝辞
会場の皆様、本日はお忙しい中を二中健児之塔慰霊祭にご参列賜わり、誠に有難く、遺族一同に代り厚く御礼申し上げます。
月日の経つのは早いもので、沖縄戦の終結から今日でもう、六十年になります。今の若い方々にすれば、青い海、青い空のこの沖縄で地上戦があったことなど遠い昔のこととしか思えないのでしょう。
しかしながら沖縄戦をこの目で見、その恐ろしさをつぶさに体験した私共昭和一桁世代の者にとっては、その光景は片時も忘れることが出来ないものであります。そして、慰霊の日が近づくと、私共遺族には必ず思い出すことがあります。我が肉親が最期を遂げたのは一体どこであろうか。飢えに苦しんで行き倒れたか、それとも敵弾にやられたのか。傷の手当てはして貰えたか。末期の水はあったかなどと思いは南部戦跡の丘を行きつ戻りつします。
思えば二中健児とその先生方の生涯は甚だ短くはかないものでありました。衣食足らずして礼節を厳しく、苦しいことのみが多かった戦前の軍国社会の中で、皆様は国のために一身をなげうつことに大和男の美学さを求めました。
その心の底には、かつて戊辰の役において郷土防衛に立ち上がった会津白虎隊の心意気があったと思います。誠に英霊の皆様は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」とうたった教育勅語の精神をいのちをかけて実践されたわけであります。その勇気と犠牲的精神は人類社会がある限り末長く讚えられなければなりません。昨今、我が国の歴史認識について近隣諸国からとかくの批判がありますが、英霊の皆様の占守防衛というスタンスの正当性は、どのような批判があろうと、いささかも揺らぐものではありません。
戦い済んで已に六十年、幸いにして生き残った私どもは、今や二十一世紀の豊饒の世界で人類史上最高の文明を享受しております。それに引き換え英霊の皆様方は「欲しがりません勝つまでは」の合言葉の下に弊衣破帽の学園生活に耐え、沖縄戦に従軍しては砲煙弾雨の生地獄の中を島の南部へ逃避行を余儀なくされました。そのお姿を思う時、あまりの痛ましさに私共はただただ愛憎と憐憫の涙を流すばかりでございます。
私達は皆様のことを決して忘れません。この先何年経とうと私共は戦争記憶の風化に抗(い乍ら
、皆様が過酷な戦場で切に希求された平和の尊さをしっかりと後世に語り継いで参ります。どうか安らかにお眠りください。
最期にこの会場の設営に当たられた那覇高等学校の名嘉山興武校長先生始め職員生徒の皆様、懐しい二中の校歌を演奏して下さいました吹奏楽部と合唱部の皆様、献花を賜わりました生徒の皆様、読経を賜わりました護国寺の名幸俊海住職、更に城岳同窓会長の宇良宗真会長始め同窓生の皆様に厚く御礼を申し上げて私の御挨拶と致します。御静聴誠に有難うございました。
平成十七年六月二十三日
二中健児之塔遺族代表
照屋 眞
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