中学への受験勉強のころ言われたのは、こんど落ちたら、来年は教科書が変わるから大変だぞ、ということであった。国語読本が「ハナ ハト マメ マス」「ミノ カサ カラカサ」から「サイタサイタ サクラガサイダ」「ススメススメ ヘイタイススメ」に変わる前の年である。私たちは教科書がカラー刷りになったことを、単純に進歩したものと心得ていた。
しかし、二中の二年生になったある日、弁当の時間に県庁の偉い人たちが視察にきた。庶民の子弟が何を食べているかということであったのだと、まもなく知った。昭和十四年、国をあげての統制経済のスタートである。
おなじく昭和十四年に、体力章検定なるものが実施されている。十五歳から二五歳までの男子に走・跳・投・運搬・懸垂の五種目について標準体力を保持することを期待して、検定を義務づけたものだ。初・中・上級を設定し、合格のバッジを授与した。この査定がきびしいもので、最低成績を基準としたから、私などは成績をごまかして初級をかろうじて得たのである。ごまかすなど無理したには理由があって、バッジをつけないと、恥ずかしくて街を歩けないのだ。私に向かない強い兵隊の準備時代がはじまっていた。
「遠足」は「行軍」となり、明治神宮国民体育大会(今日の国民体育大会)に「国防競技」が加わった。銃をかついで手榴弾投げや土俵運搬や種々の障害物を脱ける競技であるが、これで沖縄三中が全国一位になった。
教育の全体があたらしい軍国主義的な緊張を求められたということになるが、そのなかに標準語励行運動と教護連盟の活動がある。学校では片言隻句なりとも方言を喋ることを許されなかった。そのころ、有名な方言論争(日本民芸協会の柳宗悦らと県学務課との論争)が一年間つづいたが、私などは新聞記事を憶えていず、これは後年に得た知識である。よほど晩熟てあったらしい。そのくせ映画は五年間をつうじて見ていたのだから、おかしなものだが、映画館のなかで教護連盟の先生に捕まらなかったのが、不思議ではある。
校内弁論大会で、ある五年生が「校風刷新」と題する演説をして、「ある先生が、窓の下に寄り添って歩いて生徒の方言を聞き取ろうとしているが、けしからん」と喋ったら、「唾をひっかける」と野次がとんだ。すると弁士が部長の比嘉秀竿先生から退場を命じられた。「廊下の先生」というのは軍事教練の若い教官で、廊下が教室よりかなり低かったから、窓の外側の下にかくれて歩くことができたのである。
その校舎が古くなったので、昭和十五年の創立二五周年に間に合わせるようにして、二階建てに改築された。
一期先輩の人であったと思うが、卒業のとき(予議会であったか)「カチューシャ」の曲で歌を歌った。
「二中恋しや別れのつらさ せめてまた会うそれまでに 鉄筋コンクリートで ララ いてたぼれ」
その鉄筋コンクリートに、戦後なったけれども、その前の木造改築校舎が五年で焼けてしまったことになる。
校舎が改築されたあと、運動場の整備は生徒の仕事であったが、シャベルを使いながら私は、ブルドーザーのようなものがあったらなと、夢見たものである。それはアメリカではすでに発明されていたらしくて、戦後になって上海ではじめて見たとき、どんなに喫驚したことか。
そのアメリカと「戦闘状態に入れり」というニュースが入ったのは、昭和十六年十二月八日、四年の二学期の試験の最中であった。情報を得た休み時間の廊下で、万歳を叫んだかどうか、とにかく興奮したことを憶えている。
陸軍士官学校の入学試験に「英語」が廃止された。「日本歴史(国史とよばれた)」が重視された。
しかし私たちは、まだ英語の勉強を怠らなかった。これが徹底的に侮蔑されるのは、一年ほど後のことである。
昭和十八年三月に卒業。暗いといえば暗い時代であった。しかし、思い出はすこしも暗くない。スポーツの応援に赤い旗をつくってはいかんと、私たちの時に禁止されたが、内緒でつくり、それで一騒動をおこした(このことは、五十周年記念誌に書いた)。時代の暗さを明るい思い出に変えているのは、あるいは若さの記憶なのだろうか。
・二中29期・大城立裕氏の「暗い時代に明るく」を
城岳同窓会80年記念誌より転載いたしました。
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